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練習風景

 練習曲目の柱のひとつである外国語の宗教曲は、私たちは5時から事前練習として、その日やりそうな場所を皆で予習しています。先生はいつも決まって6時ちょっと前にいらっしゃるのですが、私たちが予想していた曲を練習されるとは限らず、このあたりの当たり外れが、結構楽しみだったりします。年間を通して練習しているミサ曲も、順番にやっていくとは限らず、不意打ちはしょっちゅう。『家でCredoを必死で練習してきたのに、Sanctusか~』と、内心大いに焦りつつ、平然をよそおって必死に楽譜にくらいつく。また先生が持ってきてくださる新曲のコピーが当日配られ、いきなり、4声合わせてラテン語歌詞付きで歌うのに、たじろいではいられません。気分は昔懐かし『初見視唱』の試験…。 

先生はひたすら音叉で譜面台をカンカンとたたいてテンポを出しつつ音楽を前へと進めていかれますから躊躇している間はありません。無伴奏で歌っているので、自分のパートの音が取れなくなったときには黙るしかない (落ちた…トホホ)。 努力次第、という本当の意味の厳しさはあります。

 

  練習の後半は、大体いつも高田三郎先生の「混声合唱のための典礼聖歌」をやります。これもまた、曲集の中のどの曲をするかは当日のお楽しみ(?)・・・ほとんどの団員にとっては毎回が初見です。典礼聖歌はミサで一般信徒が誰でも歌えるよう、また詩編の言葉や典礼文が生きるよう作曲されていますから、メロディーは自然で、ユニソンで歌う限り歌いにくいということはありません。しかし混声合唱になると、初めて気づくのは、そのハーモニーの独自性。ぶつかり合う響きや、とりにくい音程、そして、個性的な和音進行。しかしそこにこそ高田先生の深い意図と緻密な構成があります。その極意(?)を細かく解読、解説しながら、松原先生は小節ごと、拍ごとのハーモニーを厳密に表現することを求められます。

 

 一度ざっと合わせた後、「では少し丁寧にやっていきましょう」とおっしゃると、パート別に1声だったり、さまざまな組み合わせの2声だったり。あるパートだけ部分的に何回もやり直しが入る時は、当人は身が縮む思いがするのですが、先生は何がまずいかをあまり言葉でおっしゃらず、ご自分が歌ってみて下さり、要求を理解しろ、という感じ…文字通りの口移しですが、私たちの方は「何がまずいのだろう?」「どう歌ったらよいのだろう?」と必死で聴く耳を鍛えられます。不必要なアクセントだったり、フレーズの入り方やおさめ方、でこぼこだったり、ピッチのあいまいさだったり、悪いところに気付くことを促されているという感じです。

 

 こう書くと、どんなにピリピリとした厳しい練習か…と思われるかもしれませんが、松原先生の口調はあくまで淡々と穏やかで、しかも大人のユーモアがあり、絶妙のタイミングでのギャグに爆笑あり、実に楽しい練習です。また折に触れ、かつて松原先生が音大生で高田三郎ゼミに所属していらした時代、高田先生が典礼聖歌の作曲を進めておられた頃の貴重な「秘話」を、おもしろおかしく披露してくださったりもします。しかしその穏やかさの中の鋭い指摘を感じるか否か、また練習を真に楽しめるか否かは私たち次第、練習外での各人の努力次第、という本当の意味の厳しさはあります。 

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